思考の詳細

SNSでは説明しづらい詳細について書きます。

孤高と会話

僕は決して登山家というレベルではなく、高尾山とか、中央アルプスとか、短期留学してた頃スイスの低い山を登るといった経験値だ。その拙い経験の中からの想定だが、滑落、天候変化、自分の身体への過信、寒さ対策の不準備等、山が高くなる分命を落とすリスクは高まることは間違いないだろう。

 

今、管理系の仕事で、会社のトップに報告する立場にある。正確無比の報告が求められる。

自分の仕事という山が高いのかそれほどでもなないのかわからないが、高い山とすればその分ミスは許されない。そんな仕事を突き詰めようとすると、僕の場合どちらかというと孤高になりやすい。

 

そんな中、今日ランチに誘ってくれる先輩がいた。

理由はよくわからないが、後輩の自分に3ヶ月に一回程度、ずっと声をかけてくれている。

 

今日のランチのレストランに入ると、偶々、東京駅の見える席が空いていた。

隣のビルの美味しい回転寿司の店の話を聞いた。40歳代の起業家が、地元北海道根室で「家族で回転寿司」を外食のコアと悟り、地元の食材を店に持ち込んで人気店にした。この店は、回転寿司形態としては東京唯一の店舗らしい。しかもビルは日本で一番坪単価の高いところだ。そのビルの吹き抜けで見上げると、いつも混んでいて気になっていた店だ。

 

次に話題に登ったのは、ぼくが出向していた頃のの大先輩が、奥さん亡くして元気ないから所沢まで元気つけに行こうと誘ってくれた。行こうと思いつつ、きっかけが無かったから「渡りに船」だった。

 

そんなこんなで、ランチの1時間はあっという間に過ぎた。

日々一人で突き詰める作業が多い中で、そういう先輩との雑談は正直心に染みる。

 

また、帰宅して今日は久しぶりに奥さんと相当話した。

家内も、一人で頑張れる性質だ。孤高を苦とせず突き詰められる性格なのかもしれない。

ただ、僕がこのような今日の出来事を勝手に話していてら、まんざらでもないように会話に応じてきた。

 

「夫婦とは長い会話である」と聞いたのは、確かNHKの「気配り先生」と言われた鈴木健二氏からだと思うが、ネットでみると元はニーチェらしい。ウチもご多分もれずその時の夫婦の出来は、まさに会話の長さとなっている。

(了)

 

 

 

 

自分の客観的姿

随分前の話にはなるが、人材大手の会社のバイトに参加した。確か、会社に入る直前だ。

めぼしい新卒をアルバイトで釣ってコンタクトするのが目的だったんだろう。

 

そのバイトは教育プログラムのモニターという事で、自分でまず自分のイメージを画用紙を使ってプレゼンする。周りの5人がその人の得意、不得意をあらかじめ書いてある項目で5点満点でつける。項目は「自信が感じられる」「相手の話を聞いていない」「説明に説得力がある」等々だ。

 

一方自分でも同じ項目に得点をつける。最後に自分で、他人がつけた点と自分のものとの齟齬が大きい部分を中心に、自分なりに考えたところをその5人にプレゼンする。

それで彼らの意見もきく。「そこは君が思う以上にこうだよ」などと言い合う。ただ個人攻撃が過ぎないように、一人ファシリテーターが付く。

 

その研修はずっと印象に残っている。例えば、自分では人の話を聞いていると思っているし事実そうだと思っているが、相手は聞いていないという点をつけてきた。

 

また別メニューで自分のみが答えるアンケートがあったが、標準に比べてかなり偏っていた。

何がどう偏っていたか良く覚えていないが、「極めて感覚的に動く」という結果が出ていた。

 

あれから30年。自分は何か変わったのだろうか? それについて調べる術は今はない。

 

ただここで何が言いたいかというと、自分がどのような人物か、周りの人はかなり掴みで分かっているだろうという事だ。また、他人の間でその「客観的」姿にほとんど齟齬がないのではないか。

その人をより知っている人は別の意見を持つ時も多いだろう。ただ、多くの人はその人を知る機会がない。それらの人々は、ある共通のイメージを描くのではないだろうか。

 

「社会的動物」(アリストテレス)である人は、そんな客観的な姿で判断され、扱われることが多いだろう。とすれば、その姿を把握することは有用ではないか、と研修で思った。

 

このような自分の客観的姿の把握が、メディアで議論されたりすることがないのが不思議だ。

(マツコがTVで勧める食品とか、電気機器よりもよほど重要な気が個人的にはするが。。)

 

悠々と過ごしたいものだが。。

最近、管理系の職場のせいか、やたら細かい事に頭が回る。

考えると事が無くてボケるよりいいかと思っているが、それなりに頭が疲れる。

 

世の中、スマホとかIT機器とか便利になって、その気になると手に入る情報は格段に多い。イラク軍のモスル旧市街への進出から、ロンドンの頻繁なテロ、日本では医学生のレイプ事件か、興味があればすぐネットで調べ、その犯人の実家の病院まで分かる。IT機器にしても「ここはWIFIが問題ない強度か」とか、「SUICAが使えるiPhoneの電池がなくなったら、駅から出られないよな」とか、「午後一会議でも、昼休み短眠するけど、このスマホのタイマーはヘッドフォンでも聞こえたっけ」等々、昔より考える選択肢がかなり多くなった気がする。

 

それらに瞬時に優先順位をつけて、自分で重要なもののみを実行し、あとは切り捨てるという事もしなければいけないと思ってはいるが、では具体的にどうやるかは、誰も教えてくれない。

 

それが出来たら、自分としてはレベルアップだろう。

「そこを目指すには、まず何から着手するか」、あーいかんまた考えてしまう。。

今日は、この辺で止めよう(了)。

進歩

ふと思えば、「オギャー」と母から産まれ落ちて以来、50年以上生きてきた。

 

小学校位の小さい頃から、何がどの程度進歩してきたのかと考えると、印象的にはざっくりいうと進歩は5%位で残り95%は変わっていない気がする。

例えば、今日図書館から帰りながら思ったが、図書館の中で本を探す時の目線とか、帰宅途中に周りを無意識にキョロキョロ見ていると所などは、小学校の通学路を歩いていた頃と全く変わらない気がする。

 

明確に何が変わったかといえば、取得した「技術」だろう。小手先とか、テクニックの部分だ。

ちょっと数学とか物理が解けるようになったとか、IT機器を触れるようになったとか、いい曲を知ったとか、ピアノを覚えたとかといった事だ。

 

多分、それ以外は、何も変わっていないんだろう。

もちろん社会の仕組みを少し知ったり、人との対応方法はある。

ただ反面、偏見に捉われない考えるととか、青雲の志もなくなったりして、失ったものも大きいように思う。

 

あ、そうそう子供の頃からの違いとしては、自分の子供ができた。

今のところ幸いにも、親を泣かせないいい子だ。

(自分は何回か親を泣かせた)

 

という事で、50歳を超えた後、自分の進歩をほとんど思いつかないが、「日々気持ち新たに生きられればそれで良し」としよう。

 

今夜はそうして了😌

 

 

 

 

 

家族という基盤

昨日は、日曜日で卓球の試合があり、その夜は飲み会に参加予定だった。

ただ、飲みに行きたくなる程結果が良くなかったし、疲れていたのでパスして家に帰った。

 

すると、家で意外と結構するべき作業があり、まずそれをこなした。

 

そして、娘と久しぶりに長時間話した。

TOEICを受けようか」とか「ITに興味あるからIT資格でいいの取ろうかな」とか他愛のない相談を受けた。また娘が昔中断したピアノを少し弾き始めていて、自分が初見で弾けないブルグミュラーの曲を「弾いてよ」と頼まれ、少し弾いた。

 

多分、飲み会に行ったら帰ってきて直ぐ爆睡して終わった夜だったと思う。

代わりに、家族の暖かさを感じることができて良かった。

 

 

 

 

 

 

自由な日々

今、幸いにも定時で退社できる部署だ。その後、本を読んだり、音楽を聴いたり、アメリカのtvドラマをみていると、あっという間に就寝の時間となってしまう。

 

本は、今、同時並行で2冊読んでいる。パトリシアコーンウェルの英語のサスペンス本と「オイラーの贈り物」。後者は、数学の本だ。これが、懇切丁寧な解説で面白い。昼休み、ランウンジで半分寝っ転がりながら例題を解いている。前者の英語のペーパーバックは、入眠剤を兼ねている。これを読んでいて、二度ほど眠く感じたら、本を置いた後、確実に眠っている。

 

音楽は色々聴いているせいか、発見があった。一つは、先日永年探し求めていた曲名がわかった。クルセイダーズの「スパイラル」だ。偶然聴いて曲名をチェックした。学生時代聴いたそのままのインパクトがある。

もう一つはバッハの無伴奏ヴァイオリン曲。

「一挺のバイオリンで宇宙を描いた」と言われている曲集だ。結構、音楽を聴いていると思っていたが、一昨日初めて聴いて感動した。

 

あと週末は卓球と、かなり自由な生活をしている。

自由はいい。それも平和があるからだ。だから、今のところ戦争突入を踏みとどまった北朝鮮にも感謝している。

自分の音楽データ無くなった!?

ご存じiTuneというソフトは、相当気まぐれなソフトだ。

 

今日も、新しいCDをPCに追加して、それをiPadiPhone  にコピーして曲を持ち運ぼうとしたら、りんごマークがすぐに来て、更新情報が全然コピーされない。

「ふーむ」と思って、PCのミュージックを同期しようとしたら、ポップアップがでて、「ライブラリーを削除するか、うんぬん」とでて、迷いなくOkをおしたら、なんと購入された曲のみがiPad に入ってきた。

 

僕は2200曲くらい曲データがあるが、同期したiPad では153曲なっていた。

PCも153曲しかない。。

家に帰って、ビールをのみながら何も考えずiPhone  も同期したので全ての家のデバイスが153曲になってしまった!

 

焦った。これまで何十年とためてきた曲が喪失したか、と思った。

 

これはハードディスクにとってある数日前のPCのデータから復元するしかないと考え、やろうとしたら、PCが初期化されるだの、個人ファイルは残るがアプリは消えるだの、なんとも時間がかかりそうな記載がPCに出てきた。

 

だから、ビールなんかのんで、バックアップと気まぐれのiTunesを操作するからこうなるんだ、と後悔しても始まらず。

 

でも冷静にと、頭を働かせようとした。

 

1 音楽ファイルは消えていない。なぜなら消すのに時間がかかるが、その表示がなかったから、元ファイルはあるはず。

2 だとすれば、消えたのは、曲のインデックスファイル、つまり曲名とか、曲順とかの情報ファイルが消えたにすぎないだろう。

 

と推測し、PC内の音楽データのあるフォルダーを探し、音楽ファイルを全選択してiTunesにコピーした。

すると、PCのiTunesでインデックスファイルが戻り、今、iPad に同期できた!

これで、元に戻る(涙)。

やはり、何事も余裕こいてやってはいけないと反省した(汗)。

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