思考の詳細

SNSでは説明しづらい詳細について書きます。

同期逝く

会社の同期が亡くなった。

同じ大学、理系。所属グループも同じで同期の中でも仲が良かった。

 

僕の結婚式の二次会の司会もしてくれた。

その二次会で僕がビリージョエルのNew York State of Mind一曲を弾くために、慶應大学のバンドを連れてくれた。練習もせず、一発勝負。当時バブルで観客は200ー300名いた。なんとか弾いた。歌い終わる瞬間、マイクを持っていた慶応のスタッフの女の子の手が震えていた。

歌が良かったのか、緊張もしくは安堵だったか。多分、後者だろう。

 

結婚した年に、我が家に泊まりにきて、夜の2時まで彼のギターと歌に興じていた。そのあと、目の前の引き戸が突然開いて、家内に「もう寝てください」と怒られた。

 

そのあとも同期の結婚式の司会は彼が多かった。司会が似合う華やかな奴だった。

ただ、見た目を違って、真面目な奴でもあった。

 

最後に会ったのはもう2年くらい前か。

酒の後だが、真面目な会話を普通にした。

その時も、真摯に的確に答えていた。

相変わらず、見た目と違って実直な奴と思った。

 

もう奴の声を聞く事がないと思うと、全く想像できない。

「おい、冗談、冗談」と笑って目の前に出てくる気がする。

 

人生は、なんと無情なのだろう。

 

 

何もしない時間

今日のワインは、中々味わい深かった。

Berry Bros&Rudoというロンドンのワイン商が出しているボルドーのワイン、いわゆる「クラレット」だ。メルロー主体らしいが、香りも「どうだ!」という鼻腔に直接来るものでもなく、何となく鼻の周りを覆うような奥ゆかしさがある。ビジネスクラスの機内でも出てきそうな、引き締まったドライ感を中心としながら、そこから少しだけ広がりもある。銘柄は「Traditional Claret 」か。とすれば、この味は歴史あるワイン商が伝統的と評しているものなんだろう。

 

 

今晩はもう少しこのワインを楽しみたくて、最近毎日リアルタイムで見ているNHKの9時のニュースを録画にした。

 

いつも仕事やら、スポーツやら、将来への思いやら、雑然とした時間を過ごす中で、こんな空白の時間がとても貴重に思える。

 

1日の中で、このような無為な時間もあってはいいのではないかと思った。

 

卓球三昧

最近、週末の卓球中心に生活が回っている。

6月も予定をみると、3回も試合がある。昨日も杉並区の団体戦だった。2部リーグの2位。個人成績は4勝1敗だった。最低限目指していた戦績だったが、1敗は格上の選手に全く食い下がれず痛恨の敗退だった。格上を意識して、自分のプレイを晒しすぎて相手に見切られてしまった気がする。

いわゆる独り相撲をして自滅した。もっと、相手と見合いをしながら戦わないとダメだ。

 

試合ではどうしても勝ちたい。相手もそうだ。その中で、どのように考えるか。動くか。

これをずっと考えることになる。また試合中、相手のチームからヤジもある。昨日のカットマンとの対戦の時、相手チームから「この人カット打ちできないよ」とヤジも飛んだ。カット打ちは苦手ではないレベルだが、正直それには一瞬ひるむ。

その試合は団体戦の鍵となる試合だった。一進一退。相手も丁寧の弱いところを突いてきて、こちらも想い通りのプレイをさせてもらえない。実力的には自分の方が上だが、想い通りのプレイができないから不甲斐なく感じた。ただ、それでプレイが荒くなったら相手の思う壺だ。きれいに勝つより、粘り強くやるしかない、と試合中思っていた。

 

試合は2ー2のフルセットまでもつれ込んだ。最終セット、相手が取ると、相手のチームは湧く。こっちのチームも必死に応援してくれる。実力では勝てる相手だが、昨日はなんとも相手も調子もよかった。最後11ー8でなんとか勝った。最後まで必死に勝ちをもぎ取った感じだ。

 

必死にやると、少し自分の殻が破れた感じがする。また、久しぶりに参加したクラブの懇親会のお酒も美味しかった。

今、卓球は生活の大きな部分を占めている。

生きている証

ここ10日ほどブログは書かず。

卓球、夜の懇親会やら忙しかったこと、風邪気味で咳が出ていたことが理由だ。

3月から花粉症で、終わったと思ったら、卓球の後、汗で体が冷えて風邪気味になり、咳が残るという個人的典型パターンだった。咳は今回は幸いにも、治まりつつある。ある朝「体調が悪い」と言ったら、妻がその表現に驚いたらしく、その夜いつものように晩酌のビールを飲もうとしたら「本当に体調悪い人は、お酒を飲まないわよ」と言われてしまった。家内も最近腰が悪く、難儀している。

 

人生生きていると、色々難所がくる。とある後輩も、「今の会社が居づらい。なんとか現状を変えたい」と相談きた。他方、ハッピーそうな後輩達とも懇親卓球をした。確かにその時は楽しかったが、彼らもそれなりに心に色々抱えてるのだろう。

 

確実に言えるのは、誰一人、100%満足して人生を過ごしている人はいない、という事だ。

1日くらいは完全に満足な日はあるかもしれない。しかし、それ以上の時を過ごせば、不満、不安、嫉妬、ネガティブな気持ちを味わっているのではないだろうか。

 

「昨日も今日も満足だった。明日も、あさっても満足な日間違いなし!」であれば、もはや生きる意味はないのではないだろうか。

 

不満足だから、悔しい思いをするからこそ、改善しようとか、工夫とか、人は思うのではないか。個人のみならず社会的なネガティブなニュースで報じられる事も、それがきっかけとなって、改善に向かう事も多いだろう。

 

とすれば、日々味わう不完全さや、不満足は、生きている証なのかもしれない。

 

もちろん、ネガティブな事にそれらに耐えうる心と身体持つことが前提となるだろうから、それらを養わないといけない。疲れまくったら、休む。この辺の管理は、大人はちゃんとしないといけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

(取りうる)リスクを張ること

楽しかった実家でのGWも終わり、先週から仕事に入り、そして週末は土日ともに試合と卓球三昧だった。試合の結果は、当初の最低限の目標クリアといったところだった。また自分の弱点というか、課題がはっきりしたのでその点は良かった。

 

卓球ではある程度リスクを取ってゆくことが必要となる。

安全に、安全にといくと、リスクを取って攻めてくる相手に負けるときがある。

安全にいくときと、リスクを張る時を明確に頭で切り分けていれば一番いいのだろう。

というのも、実際は、ぼーっと何気なくやって切り分けができていない本数が1セットの約20回の中、3ー4本はある。流れがきていたり、乗っているときは頭を使わなくても問題ないが、そうではない時は致命的になる。

 

ピアノを弾いている時、クラシックとかノーミスがいい時もあるが、歌を入れたりする曲は、細かなミスより、情感がよっぽど大事だったりする。その際、聴いている人を楽しませるには、自分が楽しくなる音楽を演奏しないといけない。その際、ノーミスで行こうとすると、萎縮して曲が楽しくならないこともある。

 

卓球でもピアノでも、勿論、リスクが裏目に出れば、短期的には痛い時もあるが、長期的には、失敗のコツやら、ある程度のリスクであれば、返ってノーミスを狙うよりも良い結果につながるということもわかるだろう。この点、実際リスクを張らないと体験することができない。

 

無理と、リスクを貼っていい結果を出す、両者の微妙な差を見極めるのは実は卓球では重要だ。

前者の場合は、繋いだり、守ったり、次の自分の攻めにつなげる。後者は攻めの時だから思いっきりいく。守りと攻めの切り分けをトップ選手を見ているとメリハリをつけてやっている。

 

人生を生きていく中で、リスクは回避できないし、回避するものでもないと思う。

取りうるリスクとお友達のように仲良くしておくことは、実はとても重要なことかもしれない。

 

 

 

GW休暇

GW中、いつものように帰省した。実家を起点に故郷での生活を満喫した。

わらび採り、かつお、あさりなど海産物を味わい、一家のパーティ、卓球、浜松祭り、小学校の同級生との偶然の再会もあった。畑では、エンドウを取った。翌日には卵とじで食べた。ずっと5月の光と風が吹いていた。9日間、本当に堪能できた。体を心が洗われ、最近の記憶は吹っ飛び、日が経つほどに小さい頃に戻ってゆくのを実感した。

 

考えてみれば、両親も元気で、家族も円満、自分も健康であり、見渡してみても多くの幸運に恵まれている。

人はこのような周りの事をすぐ忘れ、少しでも上に行こうとしがちだ。

向上心も大事だが、最近はそれよりも「流れ」が重要な気がしてならない。

人は一人だけではなく、様々な関係性の中を生きている。家族、親戚、地域、など周りの人々、幼馴染、色んな人との出会いがある。また、自分の体すら、大半の部分は自分の意思とは違うところにある。

 

当たり前の事だが、こういう関係性の中で、流れを見ながら、自分としてベストを尽くすべきなんだろう。

 

思い出と、幸福感を体いっぱいに満たして、これから東京に戻る。

 

 

 

黒い霧の首相をのさばらしてはいけない

日本では、民主主義はまだ完全に根付いているとは言えないと思う。

会社に入って海外出張に行き始めてまもない90年代、出張先のアメリカの自由な雰囲気が好きだった。

まず朝食の雰囲気。日本だと、朝といえば温泉浴衣に眠そうな雰囲気が定番だったが、アメリカは全く違っていた。ホテルのレストランでは、スーツを着てオレンジジュースを飲みながら新聞を読んでいたり、ビジネスマン同士のミーティングなど力溢れる時間であった。

 

次に印象的だったのは、確かカーボーイ風ステーキレストランに行った時に会った女性店員達だ。ときに我々の座っているベンチ横に足を載せて「何をオーダーする?」と聞いてくる。一見無礼なんだけど、働いている姿がとても誇らしく見えた。日本の店員とは全く違ってみえた。そういえば、その時の行きの日本便の男性の客室乗務員が、やたら「すみません」といいながらサービスしていた。先ずは謝るというのがマニュアル通りなのか、卑屈にさえ見えた。

 

また当時ブッシュとゴアの大統領選挙が大接戦で、大統領が1週間ちょっと不在となった。その時、やたらとアメリカ人の友人が怒っていた。「なんで?」と聞くと「だって、俺たちの為に働く大統領が10日間も不在っていうのはもったいないだろう」と言うような事をいっていた。

そこで、はっと目が覚めた。「大統領は民の為に働く人なんだ」と。それが民主主義ではないかと。

 

日本は、江戸時代もっと前の封建時代から役人=国家公務員(首相含む)=お上が抜けきらない。

民は下だと思っている。だからなんとなく上へ、上へと行きたがる。

しかし、真の民主主義にあれば、あくまで民が第一で、大統領とかリーダーは

あくまでリーダーという役割だ。もちろんリーダーは大変だ。その対価の報酬と尊敬は受ける。

ただ、大変であるから、その役割に誰もがなりたいわけではない。つまり人の上下ではない。

日本は、そういう役割もはっきりしていないし、なんとなく封建時代をひきづって、真の民主主義に完全に移行できないでいると思う。

 

今回、森友問題、加計問題は、国民の税金が首相近辺で森友では9億円、加計では通常坪70万円が相場の建設費が坪150万円で建てられている。水増し分50億円の税金がお友達につぎこまれた疑いがある。

 

強い首相がいて、それにおもねる役人、そして国民がデモしようが、首相は強気に居座っている。「嘘つきというなら、証拠を示せ」と言っている。2015年4月2日の柳瀬元補佐官との面談のウソも、首相夫人が超右翼の学校の名誉校長で、100万円寄付していても「関与していたら首相をやめる」と強弁する。加計にしても「2017年1月20日まで加計が獣医学部を申請しているとは知らなかった」という。強気+口先で言い放つ+どうせ煙にまける、いう考えにしか見えない。

 

今こそ、こういう権力の蜜に溺れた人を日本のリーダーから排除しないといけないと思う。

でないと、文書黒塗りや、国民が居酒屋で話していただけで逮捕される可能性がある特定秘密保護法等により、我々国民の権利を次第に制限し、独裁者がいのままに政治を進め、利益を得るという昔のフィリピンのマルコス政権とかの時代になる可能性すらあるといわれている。

 

政治家を馬鹿というのは容易い。我々国民がバカになってはいけない。

憲法第一条は「国民主権」である。また、首相とか役人は現憲法を尊ぶ義務ある(憲法99条)。

首相とか役人が憲法改正を軽々しく言ってはならないのだ(昔、小池現都知事が「プチ憲法改正」とか言っていたが、憲法を勉強していないのがすぐわかる)

安倍首相も、改憲改憲と言う割には著名な憲法学者芦部信喜氏を知らなかった。

国会で小西ひろゆき氏の問い「基本的人権の尊重な何条か?」ときかれて答えられなかった。

恐ろしいほどの不勉強さが政治家にある。

 

我々は、マスコミとかメディアの影響は受けるが、情報を取捨選択して、しっかり常識で政治に対してYes、Noを言わないといけない。デモという手もあるが、まずは選挙であろう。

高潔ではない権力者をのさばらしてはいけない。

「お上は悪くはしないだろう」というお人好しの国民は、ダメだ。

物言わないが、きっちり選挙で結果が出るような政治家に睨みがきくような国民でないといけないと思う。