思考の詳細

SNSでは説明しづらい詳細について書きます。

反省点

この年になっても、当然、反省点はある。

反省点とは、「こうするべきだった」し、今後「こうするべき」という事だ。

 

最近の主な反省点として、二つ思いつく。

 

まずは、「仮定の中ではなく、今の状況でベストを尽くす」事だ。

「仮定」は自分がコントロールできることならいいが、コントロールできない事を前提にしてはいけない。

 

コントロールできない事を夢想しても、それがならなかったら、自分の力ではどうしようもない。それまでかけてきたコスト、すなわち努力、時間、お金が無駄になる。

 

もう一つの反省点は、家族等、身近な人々を大切にする事だ。僕の場合とかく顕著かもしれないが、身近は当然得ているものとしてないがしろにし、その先を見てしまう。いつもその先を得られない時に、身近の有り難さを感じる。

 

これらの反省点は、今後しっかりと心に留めておきたい。

 

夏休みの後

ゆっくり一週間、夏休みを実家で取った。

相変わらず芸がないとも思うが、親も高齢なので元気な内に色々話したり、一緒に旅行に行ったりしたいと思っているからだ。

 

ただ、一週間もいるといい面、悪い面を垣間見る。

いい面は、皆思ったより元気で一泊の富士山近辺の旅行は楽しめた。

いいホテルと温泉、富士山をみれなかった点以外は最高だった。↓はホテルの庭の一部。

f:id:jnxjent:20170730194516j:image

悪い面については、現実をちゃんとみて、家族皆で助け合って対応するしかない。

精神的に痛手を負った時、それを話す人は愚痴を言った分ストレスが減り、一方聞いた人はストレスが増える。物理の「作用、反作用の法則」そのものと思った。

 

今後、また時々刻々と変わる状況においてどうするか、自分をしっかり持って対応しようと思う。

 

 

 

親の心

娘が軽い夏風邪を引き、今週、週三回ある部活の最初の2日をサボった。

「多少無理して行っても大丈夫じゃないか?」、「行かないと、段々クラブに行きにくくなるよ」など色々言いたいのこらえ、言葉を飲み込む。

 

今日は週3回目の練習日。朝空咳をしていたのでダメだと思ったが、結局行ったようだ。

頑張って行ったのだろう。ちょっと嬉しかった。

 

金曜日は、その後飲み会に参加する日だ。風邪が酷くならければいいと思うが、あとは帰宅の時間次第。ただ、それも子供に任せるしかない。

 

親というのは、子供の事は気になるものである。自分の親にも同じように心配かけてた時があったのかと、今更ながら思った。

 

 

 

 

幸せを感じる時

幸せと聞くと、いつも幸せを感じている人々なり、光景を想像する。

笑顔、家族、豪邸、デート、映画や本や、イメージは数限りなく存在する。

しかし、実際の幸せは違うような気がする。少なくとも、僕の経験するものとは違う。

 

例えば、今日も午後卓球の練習があった。行く前は、毎度結構憂鬱だ。

不調だったらどうしよう、成果がなかったら、相手がいなかったら、色々な不安材料が頭をよぎる。

 

また最近不調で、普通勝てる相手にも全然勝てず結構落ち込んでいた。

今日は、いつも撮影しているビデオの反省を活かすことができた。

すると、格上の人にも簡単に勝つことができた。やるべき事をやれば、勝てるのだ。

 

そうして、その時は幸せモードになる。

ところがその後、卓球の練習が終わって帰ろうとしたら、なんと自転車がパンクだ。

実は練習前、自宅を出てくる時にパンク状態になっていた。その時、空気を入れたのに、練習後にまたパンクになっていた。

 

自転車屋に行くと、「1時間半かかる」と言われた。

「1時間半」という時間に途方に暮れたが、近くのドトールで時間を潰すことにした。読みかけの本が手元にあったので、読んでいると上手く時間を潰せた。ようやく自転車屋に行くと、「まだやってないから15分待ってください」と言われた。

 

待った後、何とパンクしていないと言う。

原因不明だ。

 

そうして、半分モヤモヤしながら帰ってくると、今度は、何と自宅に忘れたはずの撮影用の自撮り棒が家にない。

今日練習途中にいつものように撮影しようと思ったら、なかった。家を出る時、確かバックに入れたはずなのに、体育館でなく、その後自宅に戻ったら、無かった。

ダメ元で体育館に電話したら、幸いにも落し物で届いていた😭

やっぱり体育館で、中身をほじくり返している時に自撮り棒が外に落ちたらしい。

一瞬バックから誰かに盗まれたと思ったらが、そうでなくて良かった。

 

帰ってきて自分の部屋で寛いでいたら、娘が入って来て、久しぶりに一緒に映画をみた。

途中までだが、みた映画は「ローマの休日」。娘の大学の英語の教材で使われたから見たいと思ったとのこと。

これは、実は僕の大学の頃と全く同じ。英語のリスニングの教材で当時、テープが擦り切れるほどこの映画のセリフを聞いた。そしてその後映画をみて感動した。娘も同じ道を辿っている。

 

このように今日も夜の9時を回って、やっと束の間の幸せを味わっている。

不安や憂鬱を克服して初めて、幸せは味わえるものだと思い始めている。

苦しみやら、憂鬱やら、ネガティヴな感情を味わないと、幸せというポジティブな感情も来ないのかもしれない。何にもなくて、ただ幸せを感じられる時も全く無い事はないのだが、とってもレアなのではないだろうか。

(了)

 

 

 

 

 

ブルートゥース機器 、ペアリングの小さなトラウマ

ブルートゥースイヤホンが欲しかったので、AmazonでベストセラーのSound Peats Q12を買ってみた。3000円弱と安い。
まず、ペアリングの仕方が分からず、四苦八苦。

同梱のパンフをよく読むと、コントローラの真ん中のマルチファンクションボタン(MFB)を3秒おして電源が入ると書いてないあるが、
ペアリング先のスマホに全然イヤホン名が出てこない😞

ググったら、この製品の記事があった。
http://note100yen.com/en-161015.html
電源を立ち上げた後、「8秒押して青赤とLEDランプがついてペアリング」だと。
そんな事、同梱のパンフにはどこにも書いてない‼️👊
頼むから、メーカー様、ユーザー視点でスタートさせるパンフ作ってね🙇

気を取り直して、ノイズが入るのが気になるが、実際使ってみてワイアレスの便利さと比べてみよう。

f:id:jnxjent:20170628220804j:image

孤高と会話

僕は決して登山家というレベルではなく、高尾山とか、中央アルプスとか、短期留学してた頃スイスの低い山を登るといった経験値だ。その拙い経験の中からの想定だが、滑落、天候変化、自分の身体への過信、寒さ対策の不準備等、山が高くなる分命を落とすリスクは高まることは間違いないだろう。

 

今、管理系の仕事で、会社のトップに報告する立場にある。正確無比の報告が求められる。

自分の仕事という山が高いのかそれほどでもなないのかわからないが、高い山とすればその分ミスは許されない。そんな仕事を突き詰めようとすると、僕の場合どちらかというと孤高になりやすい。

 

そんな中、今日ランチに誘ってくれる先輩がいた。

理由はよくわからないが、後輩の自分に3ヶ月に一回程度、ずっと声をかけてくれている。

 

今日のランチのレストランに入ると、偶々、東京駅の見える席が空いていた。

隣のビルの美味しい回転寿司の店の話を聞いた。40歳代の起業家が、地元北海道根室で「家族で回転寿司」を外食のコアと悟り、地元の食材を店に持ち込んで人気店にした。この店は、回転寿司形態としては東京唯一の店舗らしい。しかもビルは日本で一番坪単価の高いところだ。そのビルの吹き抜けで見上げると、いつも混んでいて気になっていた店だ。

 

次に話題に登ったのは、ぼくが出向していた頃のの大先輩が、奥さん亡くして元気ないから所沢まで元気つけに行こうと誘ってくれた。行こうと思いつつ、きっかけが無かったから「渡りに船」だった。

 

そんなこんなで、ランチの1時間はあっという間に過ぎた。

日々一人で突き詰める作業が多い中で、そういう先輩との雑談は正直心に染みる。

 

また、帰宅して今日は久しぶりに奥さんと相当話した。

家内も、一人で頑張れる性質だ。孤高を苦とせず突き詰められる性格なのかもしれない。

ただ、僕がこのような今日の出来事を勝手に話していてら、まんざらでもないように会話に応じてきた。

 

「夫婦とは長い会話である」と聞いたのは、確かNHKの「気配り先生」と言われた鈴木健二氏からだと思うが、ネットでみると元はニーチェらしい。ウチもご多分もれずその時の夫婦の出来は、まさに会話の長さとなっている。

(了)

 

 

 

 

自分の客観的姿

随分前の話にはなるが、人材大手の会社のバイトに参加した。確か、会社に入る直前だ。

めぼしい新卒をアルバイトで釣ってコンタクトするのが目的だったんだろう。

 

そのバイトは教育プログラムのモニターという事で、自分でまず自分のイメージを画用紙を使ってプレゼンする。周りの5人がその人の得意、不得意をあらかじめ書いてある項目で5点満点でつける。項目は「自信が感じられる」「相手の話を聞いていない」「説明に説得力がある」等々だ。

 

一方自分でも同じ項目に得点をつける。最後に自分で、他人がつけた点と自分のものとの齟齬が大きい部分を中心に、自分なりに考えたところをその5人にプレゼンする。

それで彼らの意見もきく。「そこは君が思う以上にこうだよ」などと言い合う。ただ個人攻撃が過ぎないように、一人ファシリテーターが付く。

 

その研修はずっと印象に残っている。例えば、自分では人の話を聞いていると思っているし事実そうだと思っているが、相手は聞いていないという点をつけてきた。

 

また別メニューで自分のみが答えるアンケートがあったが、標準に比べてかなり偏っていた。

何がどう偏っていたか良く覚えていないが、「極めて感覚的に動く」という結果が出ていた。

 

あれから30年。自分は何か変わったのだろうか? それについて調べる術は今はない。

 

ただここで何が言いたいかというと、自分がどのような人物か、周りの人はかなり掴みで分かっているだろうという事だ。また、他人の間でその「客観的」姿にほとんど齟齬がないのではないか。

その人をより知っている人は別の意見を持つ時も多いだろう。ただ、多くの人はその人を知る機会がない。それらの人々は、ある共通のイメージを描くのではないだろうか。

 

「社会的動物」(アリストテレス)である人は、そんな客観的な姿で判断され、扱われることが多いだろう。とすれば、その姿を把握することは有用ではないか、と研修で思った。

 

このような自分の客観的姿の把握が、メディアで議論されたりすることがないのが不思議だ。

(マツコがTVで勧める食品とか、電気機器よりもよほど重要な気が個人的にはするが。。)