思考の詳細

SNSでは説明しづらい詳細について書きます。

年末年始

年末年始はいつものように実家でのんびりした。

こうして実家で楽しめるのも、元気な両親に負うところが大きい。

子どもは大学に入って落ち着き、その分、この時期を気楽に楽しむことができた。

親にはいつか恩返しをしなければと思いつつ、いつまでも子ども気分で楽しんでいる自分を振り返ると、やや気恥ずかしい感じもするが、これも子どもの務めと思って甘えてしまっている。

親戚周りや、両親、同居している弟夫婦との食事、卓球レッスン、高校の学年同窓会と色々楽しめた。

 

明日から仕事だ。厳しい世界ではあるが、十分充電した力で乗り切って行きたい。

 

2018年元日の昼

 

2018年になった。

 

元日の今日はいい天気になった。

起きて、実家の部屋を掃除した。

そして、ジョギングを久しぶりにした。

元日はよくジョギングをする。

一年の計は元旦にあり、というが今年もジョギングをしながら、目標を立てた。

 

去年の目標は、ほとんど忘れていたが、ブログを見返してみたら

不惑」だった。つまり、子どもの受験の結果いかんでは、自分の計画も

色々変わり得たが、どの結果になっても動じないようにしようというものだった。

 

今年も目標は、、今は胸に閉まっておく。

 

ともかく今日から1年のスタートだ。

新年の日々、気持ちもあらたに過ごしたい。

 

 

冬休みのはじまり

ただ今、帰省の新幹線にいる。

天気もよく、最高の富士山もみえた。

 

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 が、まだ脱力感の中にある。

仕事も忙しかったし、年末の雑事もバタバタしていた。

朝は家族の年賀状を印刷した。

年賀状は、印刷ミスは痛いから、よく確認しながらやったら

今日は印刷ミスはゼロだった。

家から出発して、駅の改札を通った時に、手提げ袋が無い事に気付いた。

ゴミを出したときに手提げをごみ収集所に置いたと思った。

中には図書館の本が入っている。無くしたらヤバイ。

家に電話したら、家にあるという。家内が外出ついでに駅までもってきてくれた。

 

新幹線の中では、最近ハマっているウォーキングデッドを一話みた。

新幹線のWIFIは設定が複雑で、スピードも出ず、しかも月額料金で高いとあって、

スマホテザリングでみた。

さすがDocomo4G、トンネル内でも全然途切れなかった。

一話みて900MB。想定通りのパケ量だ。

もう新幹線は静岡についた。二話は勿体ないので、本を読もう。

ということで冬休みがゆっくり始まった。

行動の選択肢の多さ

今年も残すところ8日となった。

前のブログで書いた待ちは2週間ばかり続いていたが、来週月曜日会議がやっとセットされ、年内区切りをつける目処がたった。

また、FBでも書いたアマゾンの中古本販売で別の本を送ってしまった件も、新品を先方に送ることでこちらのアクションはなくなった。

あとは、卓球のラバーを全く違うものに変えた。その良し悪しは今日午後の練習でわかる。

変えろ、変えろとうるさく行ってくる先輩がいて、ものは試しで一度変えてみた。

ただ、合わなかったらまた元に戻す可能性がある。

 

などなど、ほとんど大した事はない雑務をこなしながら年末を迎える。

ただ、それなりに忙しかった。

 

思うに、行動の選択肢がスマホとかネットの到来で圧倒的に増えたから、その行動の選択に疲れるのではないか。

 

前は携帯電話はあり話したり、留守電聞いたりするくらいだったが、今は動画をネットでみたり、モバイルバンキングの何種類もあるパスワードとか、ビットコインの相場をスマホでチェックしたり、本をネット販売して相手住所を確認したり、年賀状をPCで印刷しながら、図書館の本の返却期限をサイトでチェックするなどなど、昔より明らかに行動パターンが多く、それらの段取りというか、その順番を考えて行動しないといけない。

間違えると、例のアマゾンの誤送付のように、あとで何倍の手間がかかる。

 

こうした行動パターンの多さに加えて、自分としては管理系の職場にきて細かいところに気づくせいがあると思っている。

 

何も考えないで、ぼーっとしたい。といつも思っているが、今もこうしてキーボードを叩いている。

前も書いたが気疲れしない方法は考えないといけない。

あと、行動の蓄積として、結果進歩するようにしないといけない。

 

ただ、忙しかったり、先を焦ったりして、今がお留守にならないように気をつけないといけない。

昔、別の事を考えながら子供に大きなゴムボールを蹴って遊んでいたら、膝から崩れて大怪我した。

今に集中しないといけない。

と行っていると、肩に力が入ってくる。

 

メリハリをつけるのが一番いいんだろうけど、言うは易し、行うは難しである。

 

 

 

 

待ちによるフラストレーション

待つのは、苦手である。

多少せっかちかもしれないが、自分で行動を起こす。

例えば、立食パーティでも自分から声をかける。

仕事も起案する事が多い。

他人は自分の事で精一杯であり、他の人に気を回していない。

だから、自分が動かないと、人は動かない、と思っている。

 

今は仕事で待ちが多い。こちらは早く作業するのに、返ってくる時間が遅い。

このやりとりのスピードが遅いと、年末の休みが1日づつ減ってゆく。

 

焦りはあるし、正直、このような業務フローは大いに問題だと思い始めている。

正直、フラストレーションが溜まる。

 

来年のテーマへの雑考

昨日は今年最後の卓球の試合も終わり、来週は仕事のラストスパートである。

予定通り、今日の一杯は、今日の練習の疲労感を残しつつも、ここまでたどり着いた満足感がある。

 

仕事のスケジュールが立てやすい職場なので、9月くらいから年末までの予定をたてていた。

ともかく、来週で今年の仕事をやりきれればベスト、でも再来週1ー2日食い込んでも仕事を完遂したい。

 

今の課題を言えば、先のことを細かく考えすぎて、やや疲れる事だ。

しかも、大抵の行動で、もっとこうすれば良かったと小さな反省までしている。

これでは気疲れして人生の時を楽しめないと思い ながら、中々このパターンから抜け出せない。

 

抜くとこは抜き、締めるところは締める。

(正に卓球のプレイと通じるところもある)

このメリハリが来年の自分のテーマになるかもしれない。

 

幸せと「茹でガエル」

最近、何となく幸せ感を味わっている。

この厳しい「人生道場」にあって、それを味わえる時は、正直滅多にない。

 

何故、今味わえるかと考えてみると、まず仕事が順調な事だろう。

1年たって仕事になれ、信頼ができたのか周りもサポートしてくれる。

何より自分が一番嫌な、「暇な時間」が無い。

 

次に、家庭が安定している事だ。

家族共々元気で、それぞれ頑張っている。

子供は、年末のバイトで、バイト先から「面接で年内は働かないとは言っていなかった」と言われたらしく、そのように社会と小さな戦いをしているようだ。

家内も、家中心にしっかり対応している。

 

幸せに感じる要因はそんなもんだが、考えようによっては相当幸せなのではないかと思う。

一方、「茹でガエル」つまり、幸せに浸って、熱湯から飛び立てずに死んでしまうカエルの故事を思い出す。

 

ただ、幸せだから、必ずしも茹でガエルになるという事でもない気がする。