思考の詳細

SNSでは説明しづらい詳細について書きます。

限界を超える二つの方法

人は皆、どうしようもなくってそれ以上はできないという、いわゆる「限界」はある。

ジョギングやサッカーとしていて、心臓やら筋肉やら悲鳴を上げて「もうやめよう」としてスピードを緩める時はわかりやすい例だ。

とっても頭にきたときにぐっと抑えるとか、一生懸命考えたけどわからなかったときとか、スポーツ以外でも限界を感じる時は多いだろう。

 

そんな限界を克服するのには二つ方法があると思う。

一つは自分のキャパを増やすこと。当たり前の事だ。

勉強したり、心を落ち着かせるように体力を温存したり、スポーツなら練習したりして自分の能力を少しでも高めることがそれだ。

 

もう二つ目は、矛盾を超えて高みに登ることだ。

「それって何?」って感じだが、たとえば夫婦喧嘩をしたときは、正論、反論がぶつかり合う。

お互いの主張に固執する。

ではそこからどうしようもないデッドロックな状況か?というと、世の中の目からすると大抵そうではない。

お互いの考えが浅かったり、相手を思えば、単なる誤解の場合もある。

また、そんな対立点が些細な事とわかれば、お互い喧嘩するのが馬鹿らしくなる。

 

このように、矛盾が生じたときには、少し大きな土俵で考えてみる。

すると、その対立点は、お互いそこまで角を突き合わせることでもないし、返って損失が大きいことがわかる。

 

矛盾を解決して、更に高みにのぼる(「アウフヘーベン」する)、それはヘーゲル含めて歴史の先達が説いたところだ。

 

その意味で、対立したときに、更に高みにのぼる期待を持ちながら、少しの心の余裕をもてば、結果は前よりも良くなる事が多いのではないだろうか。

 

時に頭を空っぽにしたい

歳を取ると、妙に知恵がついてきて、色々考えてしまう。

昔であれば、起こったことを何も考えずに受け入れていた。

今日はハッピーだった、ラッキーだった、またそれらの反対、それくらいしか考えていなかった気がする。

今は、なぜそれがそうなのかと考えたり、今後の展開を予想したり、周りへの影響とか考えてしまう。

もっと、頭を空っぽにして、起こる事象に対して身を任せたいものだが。

 

小さい頃から聞いている音楽、例えば15歳の頃から聞いているレッドツェッペリンとか、イエスとか、サンタナとか今でも聞くし、その頃やっていた卓球をやっていたり、考えてみれば小さい頃とやってる事はほとんど変わらない。

 

ただ、大人になった分、多くの情報を抱え、世で起こる事への自分の反応がイチイチイ重々しくなっている気がしてならない。

ミスチルの「しるし」という歌詞にも、「軽はずみだった自分を羨ましくなるほどに」とあるが、そう感じる時もある。

 

常時、頭を働かせて、ちょっと疲れているかもしれない。

うまい具合に休息をとって、英気を養いたい。

 

 

同期逝く

会社の同期が亡くなった。

同じ大学、理系。所属グループも同じで同期の中でも仲が良かった。

 

僕の結婚式の二次会の司会もしてくれた。

その二次会で僕がビリージョエルのNew York State of Mind一曲を弾くために、慶應大学のバンドを連れてくれた。練習もせず、一発勝負。当時バブルで観客は200ー300名いた。なんとか弾いた。歌い終わる瞬間、マイクを持っていた慶応のスタッフの女の子の手が震えていた。

歌が良かったのか、緊張もしくは安堵だったか。多分、後者だろう。

 

結婚した年に、我が家に泊まりにきて、夜の2時まで彼のギターと歌に興じていた。そのあと、目の前の引き戸が突然開いて、家内に「もう寝てください」と怒られた。

 

そのあとも同期の結婚式の司会は彼が多かった。司会が似合う華やかな奴だった。

ただ、見た目を違って、真面目な奴でもあった。

 

最後に会ったのはもう2年くらい前か。

酒の後だが、真面目な会話を普通にした。

その時も、真摯に的確に答えていた。

相変わらず、見た目と違って実直な奴と思った。

 

もう奴の声を聞く事がないと思うと、全く想像できない。

「おい、冗談、冗談」と笑って目の前に出てくる気がする。

 

人生は、なんと無情なのだろう。

 

 

何もしない時間

今日のワインは、中々味わい深かった。

Berry Bros&Rudoというロンドンのワイン商が出しているボルドーのワイン、いわゆる「クラレット」だ。メルロー主体らしいが、香りも「どうだ!」という鼻腔に直接来るものでもなく、何となく鼻の周りを覆うような奥ゆかしさがある。ビジネスクラスの機内でも出てきそうな、引き締まったドライ感を中心としながら、そこから少しだけ広がりもある。銘柄は「Traditional Claret 」か。とすれば、この味は歴史あるワイン商が伝統的と評しているものなんだろう。

 

 

今晩はもう少しこのワインを楽しみたくて、最近毎日リアルタイムで見ているNHKの9時のニュースを録画にした。

 

いつも仕事やら、スポーツやら、将来への思いやら、雑然とした時間を過ごす中で、こんな空白の時間がとても貴重に思える。

 

1日の中で、このような無為な時間もあってはいいのではないかと思った。

 

卓球三昧

最近、週末の卓球中心に生活が回っている。

6月も予定をみると、3回も試合がある。昨日も杉並区の団体戦だった。2部リーグの2位。個人成績は4勝1敗だった。最低限目指していた戦績だったが、1敗は格上の選手に全く食い下がれず痛恨の敗退だった。格上を意識して、自分のプレイを晒しすぎて相手に見切られてしまった気がする。

いわゆる独り相撲をして自滅した。もっと、相手と見合いをしながら戦わないとダメだ。

 

試合ではどうしても勝ちたい。相手もそうだ。その中で、どのように考えるか。動くか。

これをずっと考えることになる。また試合中、相手のチームからヤジもある。昨日のカットマンとの対戦の時、相手チームから「この人カット打ちできないよ」とヤジも飛んだ。カット打ちは苦手ではないレベルだが、正直それには一瞬ひるむ。

その試合は団体戦の鍵となる試合だった。一進一退。相手も丁寧の弱いところを突いてきて、こちらも想い通りのプレイをさせてもらえない。実力的には自分の方が上だが、想い通りのプレイができないから不甲斐なく感じた。ただ、それでプレイが荒くなったら相手の思う壺だ。きれいに勝つより、粘り強くやるしかない、と試合中思っていた。

 

試合は2ー2のフルセットまでもつれ込んだ。最終セット、相手が取ると、相手のチームは湧く。こっちのチームも必死に応援してくれる。実力では勝てる相手だが、昨日はなんとも相手も調子もよかった。最後11ー8でなんとか勝った。最後まで必死に勝ちをもぎ取った感じだ。

 

必死にやると、少し自分の殻が破れた感じがする。また、久しぶりに参加したクラブの懇親会のお酒も美味しかった。

今、卓球は生活の大きな部分を占めている。

生きている証

ここ10日ほどブログは書かず。

卓球、夜の懇親会やら忙しかったこと、風邪気味で咳が出ていたことが理由だ。

3月から花粉症で、終わったと思ったら、卓球の後、汗で体が冷えて風邪気味になり、咳が残るという個人的典型パターンだった。咳は今回は幸いにも、治まりつつある。ある朝「体調が悪い」と言ったら、妻がその表現に驚いたらしく、その夜いつものように晩酌のビールを飲もうとしたら「本当に体調悪い人は、お酒を飲まないわよ」と言われてしまった。家内も最近腰が悪く、難儀している。

 

人生生きていると、色々難所がくる。とある後輩も、「今の会社が居づらい。なんとか現状を変えたい」と相談きた。他方、ハッピーそうな後輩達とも懇親卓球をした。確かにその時は楽しかったが、彼らもそれなりに心に色々抱えてるのだろう。

 

確実に言えるのは、誰一人、100%満足して人生を過ごしている人はいない、という事だ。

1日くらいは完全に満足な日はあるかもしれない。しかし、それ以上の時を過ごせば、不満、不安、嫉妬、ネガティブな気持ちを味わっているのではないだろうか。

 

「昨日も今日も満足だった。明日も、あさっても満足な日間違いなし!」であれば、もはや生きる意味はないのではないだろうか。

 

不満足だから、悔しい思いをするからこそ、改善しようとか、工夫とか、人は思うのではないか。個人のみならず社会的なネガティブなニュースで報じられる事も、それがきっかけとなって、改善に向かう事も多いだろう。

 

とすれば、日々味わう不完全さや、不満足は、生きている証なのかもしれない。

 

もちろん、ネガティブな事にそれらに耐えうる心と身体持つことが前提となるだろうから、それらを養わないといけない。疲れまくったら、休む。この辺の管理は、大人はちゃんとしないといけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

(取りうる)リスクを張ること

楽しかった実家でのGWも終わり、先週から仕事に入り、そして週末は土日ともに試合と卓球三昧だった。試合の結果は、当初の最低限の目標クリアといったところだった。また自分の弱点というか、課題がはっきりしたのでその点は良かった。

 

卓球ではある程度リスクを取ってゆくことが必要となる。

安全に、安全にといくと、リスクを取って攻めてくる相手に負けるときがある。

安全にいくときと、リスクを張る時を明確に頭で切り分けていれば一番いいのだろう。

というのも、実際は、ぼーっと何気なくやって切り分けができていない本数が1セットの約20回の中、3ー4本はある。流れがきていたり、乗っているときは頭を使わなくても問題ないが、そうではない時は致命的になる。

 

ピアノを弾いている時、クラシックとかノーミスがいい時もあるが、歌を入れたりする曲は、細かなミスより、情感がよっぽど大事だったりする。その際、聴いている人を楽しませるには、自分が楽しくなる音楽を演奏しないといけない。その際、ノーミスで行こうとすると、萎縮して曲が楽しくならないこともある。

 

卓球でもピアノでも、勿論、リスクが裏目に出れば、短期的には痛い時もあるが、長期的には、失敗のコツやら、ある程度のリスクであれば、返ってノーミスを狙うよりも良い結果につながるということもわかるだろう。この点、実際リスクを張らないと体験することができない。

 

無理と、リスクを貼っていい結果を出す、両者の微妙な差を見極めるのは実は卓球では重要だ。

前者の場合は、繋いだり、守ったり、次の自分の攻めにつなげる。後者は攻めの時だから思いっきりいく。守りと攻めの切り分けをトップ選手を見ているとメリハリをつけてやっている。

 

人生を生きていく中で、リスクは回避できないし、回避するものでもないと思う。

取りうるリスクとお友達のように仲良くしておくことは、実はとても重要なことかもしれない。