思考の詳細

SNSでは説明しづらい詳細について書きます。

硬い日々

今、管理系の部署にいるので、仕事はすべからく詰めることが必要となる。

全体的には仕事においてスピードよりも、詰めが優先される。

実際、普段の会話でも「根拠は?」「エビデンス(証拠)は?」と聞かれることが多い。

 

仕事で詰めを意識しているせいか、自分の行動の品質を上げようとする。

仕事中離席した時、最低3つの目的を果たすようにしている。

例えば、飲み物を買い、トイレに行き、必要な書類の印刷をする。時には、ついでにゴミを捨てたり、マグカップの洗浄もする。離席するタイミングも、集中力が切れたときとか一応考える。

 

同僚との会話も、無駄な会話は一切なし。

もちろん、気晴らし目的の「雨降ってきました?」といった会話はあえてする時がある。

このように行動一つするにしても、複数のスクリーニングを入れる。

 

これらの行動パターンは、元来詰めが甘いと自覚する身には相当負荷がかかる。

 

ただ、これを一つのチャレンジだと思っている。これまでの人生の融通無碍な生活とは明らかに違うからだ。

このような硬直した仕事振りや行動パターンの中でも、精神的に平穏を見出したいと思っている。

方法として、たとえば心持ちを”Low Expectation”、つまり結果への期待値を下げたり、余分な事を想起しても瞬間に心から消すとか工夫してみる。

 

もちろん、気晴らしも重要だ。鬱になったり、健康を損ねてはいけない。ワインを買ったり、映画を観たり工夫している。もっとも週末の卓球やら、イベントがあるのでそうはならないと思うが。

 

結果、是非ステップアップしたいものだが、まだどうなるか確証はない。

果たして、一年後どう仕上がっているだろうか?

 

 

「人間」は複数形

 

 人生、量と質とどちらを求めるのだろうか。

若い頃は量だった。手当たり次第、何でもやった。ピアノ、卓球、テニス、特許、IT、WEBサービス、どれも完遂していないかもしれないが、何かしら役に立っている。

ただ50歳を遠に超えた今、それほど量は求めず質に重きを置いている。

 

そのように人生を高めようとしているが、では何が人生の目的なのだろう。

自分の幸せのというのは大なり小なり否定しようがないが、それでも他者に喜んでもらえるというのは

とても嬉しく感じる事が多くなった。

人は色んな意味で一人だと限界がある。自分の喜びのみ満たしても、楽しさは限られている。

他者に与え、喜んでもらい、自分も楽しい、という一連の循環のない一人生活は

相当つまらないのだ。

 

「人間」という単語は、日本語では明確ではないが、単数ではなく複数表現なんだろう。

今、読んでいるSapiensもしっかりと複数形になっている。

本来、人間は複数で過ごす生物なんだろう。

ストレスを感じなかった休日

今日は趣味の卓球のマスターズ予選。つまり、年代別全国大会予選である。

義理の弟が全国大会の常連なので、自分も出場を目標にしている。

ただ、レベルが高い。全国大会に出るには東京代表になるのにトーナメントで5勝しないといけない。

昨年は一勝した。だから、今年は2勝を目指した。結果は、初戦敗退だった。

ただ、今回は反省点がはっきりしていて得るものはあったので、今日は無駄ではなかったと思う。

 

全国大会出場の5勝しないまでも、去年1勝しているので2勝を目標としていたが、今回達成できなかった。もっとも、組み合わせがあるので勝ち数は目標にはならないかもしれない。

 

早く終わったので地元に帰ってきて、勉強している娘をスタバに誘った。

今日は暑かったし、タイミングが合えば気分転換でいいと思ったからだ。

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話は卓球になった。卓球という、娘と共通の話題が一つできた。

 

そんな今日、考えてみればストレスを一切感じない日だった。

なんとなくだが、目標をたて実行している時は、結果は問わずストレスは感じないと思った。

もちろん目標達成の為の課題は持ち越すことになる。ただ、明日以降の話だ。今日の話ではない。

今日はもう終わり。

 

 

 

 

 

反省点

この年になっても、当然、反省点はある。

反省点とは、「こうするべきだった」し、今後「こうするべき」という事だ。

 

最近の主な反省点として、二つ思いつく。

 

まずは、「仮定の中ではなく、今の状況でベストを尽くす」事だ。

「仮定」は自分がコントロールできることならいいが、コントロールできない事を前提にしてはいけない。

 

コントロールできない事を夢想しても、それがならなかったら、自分の力ではどうしようもない。それまでかけてきたコスト、すなわち努力、時間、お金が無駄になる。

 

もう一つの反省点は、家族等、身近な人々を大切にする事だ。僕の場合とかく顕著かもしれないが、身近は当然得ているものとしてないがしろにし、その先を見てしまう。いつもその先を得られない時に、身近の有り難さを感じる。

 

これらの反省点は、今後しっかりと心に留めておきたい。

 

夏休みの後

ゆっくり一週間、夏休みを実家で取った。

相変わらず芸がないとも思うが、親も高齢なので元気な内に色々話したり、一緒に旅行に行ったりしたいと思っているからだ。

 

ただ、一週間もいるといい面、悪い面を垣間見る。

いい面は、皆思ったより元気で一泊の富士山近辺の旅行は楽しめた。

いいホテルと温泉、富士山をみれなかった点以外は最高だった。↓はホテルの庭の一部。

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悪い面については、現実をちゃんとみて、家族皆で助け合って対応するしかない。

精神的に痛手を負った時、それを話す人は愚痴を言った分ストレスが減り、一方聞いた人はストレスが増える。物理の「作用、反作用の法則」そのものと思った。

 

今後、また時々刻々と変わる状況においてどうするか、自分をしっかり持って対応しようと思う。

 

 

 

親の心

娘が軽い夏風邪を引き、今週、週三回ある部活の最初の2日をサボった。

「多少無理して行っても大丈夫じゃないか?」、「行かないと、段々クラブに行きにくくなるよ」など色々言いたいのこらえ、言葉を飲み込む。

 

今日は週3回目の練習日。朝空咳をしていたのでダメだと思ったが、結局行ったようだ。

頑張って行ったのだろう。ちょっと嬉しかった。

 

金曜日は、その後飲み会に参加する日だ。風邪が酷くならければいいと思うが、あとは帰宅の時間次第。ただ、それも子供に任せるしかない。

 

親というのは、子供の事は気になるものである。自分の親にも同じように心配かけてた時があったのかと、今更ながら思った。

 

 

 

 

幸せを感じる時

幸せと聞くと、いつも幸せを感じている人々なり、光景を想像する。

笑顔、家族、豪邸、デート、映画や本や、イメージは数限りなく存在する。

しかし、実際の幸せは違うような気がする。少なくとも、僕の経験するものとは違う。

 

例えば、今日も午後卓球の練習があった。行く前は、毎度結構憂鬱だ。

不調だったらどうしよう、成果がなかったら、相手がいなかったら、色々な不安材料が頭をよぎる。

 

また最近不調で、普通勝てる相手にも全然勝てず結構落ち込んでいた。

今日は、いつも撮影しているビデオの反省を活かすことができた。

すると、格上の人にも簡単に勝つことができた。やるべき事をやれば、勝てるのだ。

 

そうして、その時は幸せモードになる。

ところがその後、卓球の練習が終わって帰ろうとしたら、なんと自転車がパンクだ。

実は練習前、自宅を出てくる時にパンク状態になっていた。その時、空気を入れたのに、練習後にまたパンクになっていた。

 

自転車屋に行くと、「1時間半かかる」と言われた。

「1時間半」という時間に途方に暮れたが、近くのドトールで時間を潰すことにした。読みかけの本が手元にあったので、読んでいると上手く時間を潰せた。ようやく自転車屋に行くと、「まだやってないから15分待ってください」と言われた。

 

待った後、何とパンクしていないと言う。

原因不明だ。

 

そうして、半分モヤモヤしながら帰ってくると、今度は、何と自宅に忘れたはずの撮影用の自撮り棒が家にない。

今日練習途中にいつものように撮影しようと思ったら、なかった。家を出る時、確かバックに入れたはずなのに、体育館でなく、その後自宅に戻ったら、無かった。

ダメ元で体育館に電話したら、幸いにも落し物で届いていた😭

やっぱり体育館で、中身をほじくり返している時に自撮り棒が外に落ちたらしい。

一瞬バックから誰かに盗まれたと思ったらが、そうでなくて良かった。

 

帰ってきて自分の部屋で寛いでいたら、娘が入って来て、久しぶりに一緒に映画をみた。

途中までだが、みた映画は「ローマの休日」。娘の大学の英語の教材で使われたから見たいと思ったとのこと。

これは、実は僕の大学の頃と全く同じ。英語のリスニングの教材で当時、テープが擦り切れるほどこの映画のセリフを聞いた。そしてその後映画をみて感動した。娘も同じ道を辿っている。

 

このように今日も夜の9時を回って、やっと束の間の幸せを味わっている。

不安や憂鬱を克服して初めて、幸せは味わえるものだと思い始めている。

苦しみやら、憂鬱やら、ネガティヴな感情を味わないと、幸せというポジティブな感情も来ないのかもしれない。何にもなくて、ただ幸せを感じられる時も全く無い事はないのだが、とってもレアなのではないだろうか。

(了)