思考の詳細

SNSでは説明しづらい詳細について書きます。

幸福の大半

実に2か月以上、ブログを書いていなかった。

このブログは一定の気持ちの昂りがないと書いていないと思う。

自由に、気ままに書く。ありがちだが、そんなブログだ。

 

今、ブログに向かっているので今日は多少なりとも気持ちの昂りがあったという事だ。

午前中、所用で外出した。電車に乗って街に出た。

今日はいつも週末やっている卓球の練習もない日だ。

寒い日だ。曇っていて日中でも5度もない。

風がないのが救いだ。

 

街は空いていた。そして静かだった。

いつもつけているノイズキャンセル付きのヘッドフォンが実はずっとオフにしていたのに、

家に帰るまで気づかなかったほどだった。

 

電車はスムーズだった。いつも乗っている3本に一度の電車が往復とも直ぐ来た。

外出中、静かなクラッシックのプレイリストをかけていた。

Spotifyの Quiet Momentだ。こういう曲で脈拍が上がるはずもない。

こうして昨日ハードな練習をした身体を休める時間でもあった。

 

視界は相変らず極めて良好だ。

レーシックをやって以来、自分のQOL(人生の質)が15%程度上がったと勝手に思っている。

10%以上はある。20%は目に見えて改善したというレベルに近い、といった感じで15%。

視力は両目とも1.5ある。

会う人の目が少し自分を見るのがわかる。恐らく、こっちが見ているせいだろう。

見上げれば、雲がたなびくのが見える。雲は、音もなく光と交わりながら動いている。

庭の木々が雨の滴を抱えて、緑を深くしている。

ゆっくりと自転車を漕ぎながらそういった風景をみていると、まるでジンバル付きのアクションカメラで撮った4Kの映像だ。

 

家にコーヒーを買って帰り、このブログを書いている。

掃除をしている妻とは、地元の美味しそうなパン屋の事を話す。

穏やかな日曜日だ。

 

さて、そろそろ今日書きたいテーマを開示しよう。

今日書きたかったのは「幸福」だ。

幸福、Hapinessは誰もが得たいものだろう。

日本国憲法13条にある通り、「幸福追求権」は国民の権利の一つとして国家も認めている。

皆、何がしたいか、欲しいかと聞かれると「幸せになりたい」「幸福になりたい」とは言わない。

「結婚して幸せになりたい」とか「金持ちになりたい」、「両親に旅行をプレゼントしたい」とその人にとっての幸福の条件を言う。条件を満たすことで「幸福」になりたいというのは、恐らく皆共通ではないか。

その「幸福」について今日は少し書きたかった。

 

幸福になるには、幸福の条件がクリアされないといけない。

そのためには実現可能性が高い条件がいい。

実現可能性が高いということは、自分の進んでいる道の少し先とか、あるいはとっても低い条件(Low Expectationn)するのも有りかもしれない。後者は夢が無い感じだが、僕は後者もとっても大事だと思っている。

 

例えば、そう家族が一緒にいること。バラバラの家族も多いだろう。一人住まいの人もいるだろう。夫々、その状態をどう感じるかだが、家族が大事であれば、当たり前に家族と一緒に暮していることは、幸福の条件になるだろう。

時々喧嘩しても家族は家族。一緒にいるだけで、幸せとも考えられる。

 

同様に健康。健康な人にとって、健康は当たり前のことだ。ただ「体が丈夫なのが取り柄」と良く人はいうが、本当に感謝して使っている場面は意外と少ない。「馬鹿で、能力ないけど、体だけは丈夫」と自分を卑下することで人に否定してもらいたい目的で使われることが多いと思う。

しかし、身体に障害を持って生まれてきた人や、生まれつき身体が弱い人、いつも病院に行っている人にとって健康はどれだけ羨ましいものか。そして、実際身体が丈夫であれば、大きく活躍できる土台となる。「身体は資本」という。

健康には心の健康もある。

焦ったり、怒りや憎しみで満たされていたり、周りへの配慮や同情が無いのも健康とはいえない。

そういう心の苦しみを他人のせいにしている場合もあるだろう。そういう場合は、なかなか苦しみは解決されないだろう。

 

そういう家族とか健康とか、感謝の気持ちを持てる心とか、そういったものは当たり前と考えがちだが、実は幸福になる大半なものかもしれない。

 

後は、僕は音楽が好きなので、いい音楽で満たされていたい。

少年の頃、ある曲を聞いたりして思い浮かべた原風景を思い出せる曲に会うと、全ての行為をやめて

しばし聞き入ってしまう。

少しピアノを弾くが、身体とピアノが一体となって曲を奏でる瞬間がたまにある。

その時は、身体の溜まったストレスが、抜けてゆくのを感じる。

音楽と共に、涙腺が熱くなるときもある。

人間らしくていいと思っている。泣くのは人間だけだろうから。

 

このように静かに、健康に、心を動かしながら1日を生きてゆく。

それが自分にとって幸福の一つの形だと思っている。

 

もちろん、皆を騒いだり、卓球の大会で勝ったり、皆の前プレゼンしたり、アクティブな時も

幸福なのかもしれない。

 

ただ、大半の時間はそうでない時間が多いだろう。

とすると、当たり前の事による幸福がより重要である気がしてならない。