他人と自分の喜び
カズオ・イシグロの「日の名残り」という小説は、主人の為につくす執事(Butler)の仕事の日々を淡々と書いた物語に思える。
きれいな英語、英国の英語で読んでいて、淡々としたトーンが心地よい。屡々、良い入眠剤にもなる。
執事は、いわば「他人の為につくすプロ」といったところだ。
翻って考えれば、他人に真に役に立たなければならないときは、プロ、つまり相当程度の配慮を要するということなのだろう。
相当の配慮を行う為には、行う者が冷静でなければいけない。
実際、この物語の執事は独白の文章の中で、極めて冷静であり、美徳として自己制御をいっている。
さて話は変わるが、バブルを20数年前に味わった身のせいかもしれないが、最近は
悪く捉えれば、低成長期、よく捉えれば几帳面な時代に思える。
いずれにせよ、有限な人生だから、その中で楽しみたいものだ。
これは人類共通の気持ちだろう。
ところで地球は生まれてから46億年と言われている。
人の一生を85年として、それを瞬き一回分の時間とする。
人の瞬きは100ミリ秒らしいから、電卓で計算すると
地球の年齢は63日間、瞬きしっぱなしということになる。
こんな風に計算してみると、人の寿命が短いのか、地球の年齢が長いのかよく分からなくなるが、
両方、覚知できる数字ということだ。
閑話休題、有限な人生を楽しみたいたいものである。
それを目的として、方法は別途考えなければいけないのは当たり前だけど、今日はここまで。
魂の訓練
大きなプレッシャー感じたり、苦労をすることを『魂の訓練』というと大げさかもしれないが、そういった事は実はとても重要なのかもしれない。
何故なら、自分がプレッシャーなり、苦労を味合わないと、まず他人の苦労はわからないだろうし、苦労がわからなければ、思いやりも湧きにくい。
また、自分自身の成長も望めないと思う。
なぜ苦労しないと成長しないか、今、僕が熱を入れているスポーツの卓球を例に上げてみる。
卓球の試合では、他のスポーツもそうだろうが、勝つために精魂尽くして戦う。
練習を積んで自分の弱点を分かっていても、当日の雰囲気やプレッシャーで克服法がうまく出来ず、相手にやられ口惜しい思いをする。実際、昨日の団体戦では、チームは優勝したが、自分だけ負けて相当悔しい思いをした。
卓球が上手くなる方法は、1 負けた理由を、自分のプレイ動画をみながら等して理解する、2 次回の試合でそれを直す、3それでも負けたら、その他の理由を探し克服に努める、この繰り返ししか強くなれないと思っている。その繰り返しを支えるエンジンとなるのが、実は、燃えたぎる程の「悔しさ」だと思う。
故事に、
「ローマは1日にしてならず」
「桃栗3年、柿8年」とある。
年数やらに数字が出てくると、その数字は決して無意味ではない。
何事も、目が出るにはそれだけ時間がかかるのだ。
時々味わう絶望と、少しの楽しみと、理にかなった生活、それらがあればかなり充実した人生だと思ったりする。
とはいえ、生身の人間だから、肉体的、精神的に辛すぎる時はあるだろう。
であるから、毎日リフレッシュして送るしかない。
あのカーネギーも悩みある時は、1日単位で生きる事を確か「道は開ける」で言っていた。
人生決して楽ではない。だが「では死ぬか?」と言われると、大抵の人は「絶対嫌だ」と思うだろう。その点は、人生の真理のある面を突いているような気がする。
自然に逆らって生きる人間は確かに大変だが、それを楽しめる境地にいつか達したいものである。
決して一人ではなく。
基本的に、自分は一人で自由を楽しむ傾向はあるとは思っている。
ただ、最近は仲間の良さを感じる時が多い。
地元の卓球クラブは、練習の終わったあと昼夜問わず食事がてら一杯飲みに行く。
酒が入り午後の効率を考えると全部は行かないが、最近は自分の出席率は三分の1から半分位にまで上がっている。
行けば、人生劇場そのまま、家庭内の話とか、卓球以外の話に花が咲く。
みんな頑張って卓球以外の事をやっているのがよくわかる。
そういうプライベートの一部を共有することは、自分の家庭の事を省みるいい機会だ。
自分ばかりが大変だと思っていたら、今日も周りでももっと大変な家庭があった。
このようにストレスを発散しながら、仲間と情報を共有するのは自分がモットーとしている『思い込み禁止』にも繋がる。群れるのではなく、少し皆と付き合うというのは「人の間」と書く「人間」の理にかなっているんだろう。
そうやって皆、この厳しい世の中を、自分で頑張りながら、仲間にも支えてもらって、切り開いている気がする。
今日は、そのような事を感じた午後だった。
悔しさをバネに
昨日は卓球の団体戦 の試合だった。
地元のチームが5チームも区の大会に参戦した。
自分の試合申し込みメールがチームの編成役に届かず、飛び入り参加だったし、
試合の前日、僕のチームのメンバーが良くて、「君は出る幕ないな」と辛口の先輩に言われた。当日は子供を受験会場に送っていかなければならず、試合の朝ギリギリの時間となるし、その辛口の言葉もあったので、いっそ欠席しようとも思った。しかしその言葉は正直悔しかったし、朝の時間も間に合いそうだったので結局参加した。
出たら、午前中はずっと待ち時間だから、だからたとえ朝の用事が多少遅れたとしても、参加する意欲があれば余裕で間に合うことができたことが分かった。
肝心の試合だが、「出る幕ないな」と言われた割には、試合に出して貰えた。
一試合目。相手カットマン。一セット目は、4ー11で簡単に取られた。
ヤバいと思いながら、ベンチに帰ったらいいアドバイスを貰えた。
2セット連取したが、4セット目8ー6でリードしたいたのに、フォア側空振りの悪い癖がでて8ー11で取られた。
勝負を分ける最終セット。10ー7でリードし、あと一本で勝ちという時に一本取れず、10ー10となり、デュースで逆転負けをした。気合いを入れ、途中「出る幕ないな」で発奮しながらやったのに、結果惜敗で悔しいことこの上なしだった。
試合動画はこちら↓↓↓
http://www.youtube.com/watch?v=6dUwHDuGtz8
二試合目。最初の試合で負けていたから、出して貰えないと思っていたら、予想外に出して貰えた。
「これに勝てば、一皮剥けますよ」とチーム員から言葉を掛けられた。
自分の方が実力は上だったが、一試合目負けていたので緊張した。
結果、冷静に3ー0で勝った。
今日全敗丸坊主だったら、卓球を止めようかくらいに考えていただから、勝てて本当に良かった。
そのあと、クラブの宴会。同じ店の他のクラブが入り混じって総勢30ー40名が出入りするいった盛況だった。さすがに地元の名門クラブだ。
という事で、なんとか気を振り絞って出場し、宴会も含め結果は得るものが多かった。
これも「出る幕ないな」、その言葉のお蔭だと今は思っている。
人は自然に逆らう存在?
まず、一応健康な成人の一人して、自分は当然働かないといけない。
国に所得税なり税金を納めないといけないし、家族を養わないといけない。もちろん家族の中に自分の食い扶持もある。
では、人間は経済的に問題なければ、働かなくてよいのだろうか。
多分、人は働かないといけないんだろう。
なぜなら、単に寝転がっているだけだと、人間は生物学的に支障が出ると思うのだ。
世は、よく知られているように「乱雑さ増大の法則」の下にある。つまり、部屋はほっておけば汚れ、映画によく出てくる惑星上の宇宙ステーションも何年かたつと、瓦解し、崩壊し、チリとなってゆく。
人は自然界を支配する「乱雑さ増大の法則」に逆らう生物の一種であり、さらに他の生物にはない2足歩行をし、言葉を喋り、高度な会話や芸術、仕事といった活動をしている点で、大いにその法則から乖離している。
そんな人がずっと寝る生活を送ると、考えるとか、運動するとか、色々な機能を使わなくてもよくなる。
多分ストレスが無い心肺機能は良く働くだろう。ただ、不衛生の問題や、脳が活性化しない事による脳内ホルモン不足による免疫の低下により、そんなに長生きしないと想像する。
ちょっとググってみたら、以下のURLだと56歳とか。真偽はわからないが、家のある人に比べて短命だ。
http://hitomi.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1472384770/
何が言いたかったいうと、自然法則に逆らった人間という高等動物は、持って生まれた機能を全く使わないと当人にとって極めてバランスが悪くなると思うのだ。
逆に、持っている機能をフルに使う生活を送っていると、本人は①喜びを味わうから、ガンマエンドロフィン含む脳内モルフィネが分泌され、体の免疫力が高まる、また②運動して筋肉をつけると、筋肉により体に悪い活性酸素が分解される、さらに体にいい脳内モルフィネが筋肉により多く分泌される、と医師の春山茂雄氏は「脳内革命」シリーズで書いている。
持てる機能をフルに使うという事は、楽しみを感じる事ができれば、過労 とかない限り、健康にも繋がるからかなり良い事だと思うのだ。
他方、生物だから老いによる衰えもある。
ただ平均寿命で言えば1898年という明治27年は42歳だったのが、今や女性が87歳、男性が81歳である。
医療の進歩とともに、あと20年もすれば90歳時代、100歳時代になる可能性が高い。
とすれば、今50台の僕は明治だと20台となる笑。
どれだけ自分が老いているのか、計りにくくなる。
もちろん、不治の病である癌もあるから、その人の人生は長いとは限らない。
ただ、全体的に長命化している世の中にあって、決して楽ではないが自分の持っている機能をフルに使って喜びを味わう生活ができれば、本人にとっても周りにとっても幸せになるだろう。それこそ、人間という一見自然界法則に反した存在が、大きな意味で自然に適う存在になると思ったりする。
ワイン考
ワインを飲みまくる有名な「サイドウェイ」(2004年)という映画がある。
独身最後の時と、友とナパバレーを車でドライブするという映画だ。
手頃なサイズのワイングラスを主人公がジャケットの内ポケットからサッと取り出して、運転しながらワインを注ぎ、隣と話をしながら飲み会話するとという、今では考えられないほど長閑な映画である。
ワイン、特に赤ワインは1日一杯飲めば、ポリフェノールが摂れて健康にいいらしい。
僕はワインが好きと言っても、半分も飲むと翌日支障が出てくる。
特に、最高度のメンタルを持たねばならない卓球の試合で、何度失敗したことか。
お酒、特にワインを飲んだ翌日は不思議と闘争心が湧かないのだ。ヘラヘラと笑って人と調子を合わせているが、肝心の試合は全く勝てない。
だから最近は試合の前のアルコール、特にワインは飲まないようにしている。
僕のワインの一人飲みの適量はボトル三分の一程度。コストで言うと、一本1500円程度として、つまみも入れて5ー600円程度。
実は、毎晩職場の同期に飲みに誘われる。何故ならその同期は、家では酒を飲めない事情らしく、毎日外で一杯引っ掛けて帰りたいらしい。
彼も安さ思考なのだが、飲みに行けば1000円ー1500円掛かる。
だから、家飲みの倍のコストを掛けて彼に付き合うかというのが、会社の帰り際の10秒くらい続くちょっとした悩みである😄
家飲み、実は部屋飲みだが、美味しいチーズをクラッカーに乗せて、ワインに合わせるだけで良い。
新鮮なオリーブを頬張ると、個人的にはほぼ極上の気分になる。
一方、店で飲むとワインは店で普通に買う金額の大体3倍になるらしい。友人と会話を楽しむ目的がないと、外飲みには気が向かない。
だが例えば、僕にぴったりのワインとツマミを提供してくれる店とかだったら、月に何回は行くかもしれない。もちろん安い努力をしている店が前提だが。
美味しいワインと言えば、インディアナ州のサウスベンドのキンキンに冷えた大ぶりなグラスの白ワインのシャルドネとか、六本木ヒルズのレスタジ(今ネットでみたら閉店したらしい。)の「ナポレオーネ」とかいう果実味のあるカベルネ・ソーヴェニオンのワインを思い出す。
ワインの味は値段に比例する、つまり「値段が高ければ高いほど旨い」は定説だが、紀元前の太古からワインをヨーロッパ人にとってワインは言わば「生活必需品」なので、日本で言えばネギとか米のように、普通の値段ではこの味が基本という標準の味をコストがあるはずだ。
ヨーロッパから相当リモートな日本人の僕としては、毎日ワインを飲むという習慣もなければ文化もないが、3日も空けるとワインが飲みたくなる。
そういう個人的状況の中で、適当にCPのいい生活ワインを楽しめればとりあえずいいと思っている。
そう思って色々毎回ラベルの違うワインを飲んでいる。
いつも1500円以内のワインだが、もちろんいい事があれば、近くの食品雑貨のカルディに売っているドンペリとか買ってお祝いしたい。
今は、それほどいい事があって欲しいと切に思っている。
了