自分の客観的姿
随分前の話にはなるが、人材大手の会社のバイトに参加した。確か、会社に入る直前だ。
めぼしい新卒をアルバイトで釣ってコンタクトするのが目的だったんだろう。
そのバイトは教育プログラムのモニターという事で、自分でまず自分のイメージを画用紙を使ってプレゼンする。周りの5人がその人の得意、不得意をあらかじめ書いてある項目で5点満点でつける。項目は「自信が感じられる」「相手の話を聞いていない」「説明に説得力がある」等々だ。
一方自分でも同じ項目に得点をつける。最後に自分で、他人がつけた点と自分のものとの齟齬が大きい部分を中心に、自分なりに考えたところをその5人にプレゼンする。
それで彼らの意見もきく。「そこは君が思う以上にこうだよ」などと言い合う。ただ個人攻撃が過ぎないように、一人ファシリテーターが付く。
その研修はずっと印象に残っている。例えば、自分では人の話を聞いていると思っているし事実そうだと思っているが、相手は聞いていないという点をつけてきた。
また別メニューで自分のみが答えるアンケートがあったが、標準に比べてかなり偏っていた。
何がどう偏っていたか良く覚えていないが、「極めて感覚的に動く」という結果が出ていた。
あれから30年。自分は何か変わったのだろうか? それについて調べる術は今はない。
ただここで何が言いたいかというと、自分がどのような人物か、周りの人はかなり掴みで分かっているだろうという事だ。また、他人の間でその「客観的」姿にほとんど齟齬がないのではないか。
その人をより知っている人は別の意見を持つ時も多いだろう。ただ、多くの人はその人を知る機会がない。それらの人々は、ある共通のイメージを描くのではないだろうか。
「社会的動物」(アリストテレス)である人は、そんな客観的な姿で判断され、扱われることが多いだろう。とすれば、その姿を把握することは有用ではないか、と研修で思った。
このような自分の客観的姿の把握が、メディアで議論されたりすることがないのが不思議だ。
(マツコがTVで勧める食品とか、電気機器よりもよほど重要な気が個人的にはするが。。)
悠々と過ごしたいものだが。。
最近、管理系の職場のせいか、やたら細かい事に頭が回る。
考えると事が無くてボケるよりいいかと思っているが、それなりに頭が疲れる。
世の中、スマホとかIT機器とか便利になって、その気になると手に入る情報は格段に多い。イラク軍のモスル旧市街への進出から、ロンドンの頻繁なテロ、日本では医学生のレイプ事件か、興味があればすぐネットで調べ、その犯人の実家の病院まで分かる。IT機器にしても「ここはWIFIが問題ない強度か」とか、「SUICAが使えるiPhoneの電池がなくなったら、駅から出られないよな」とか、「午後一会議でも、昼休み短眠するけど、このスマホのタイマーはヘッドフォンでも聞こえたっけ」等々、昔より考える選択肢がかなり多くなった気がする。
それらに瞬時に優先順位をつけて、自分で重要なもののみを実行し、あとは切り捨てるという事もしなければいけないと思ってはいるが、では具体的にどうやるかは、誰も教えてくれない。
それが出来たら、自分としてはレベルアップだろう。
「そこを目指すには、まず何から着手するか」、あーいかんまた考えてしまう。。
今日は、この辺で止めよう(了)。
進歩
ふと思えば、「オギャー」と母から産まれ落ちて以来、50年以上生きてきた。
小学校位の小さい頃から、何がどの程度進歩してきたのかと考えると、印象的にはざっくりいうと進歩は5%位で残り95%は変わっていない気がする。
例えば、今日図書館から帰りながら思ったが、図書館の中で本を探す時の目線とか、帰宅途中に周りを無意識にキョロキョロ見ていると所などは、小学校の通学路を歩いていた頃と全く変わらない気がする。
明確に何が変わったかといえば、取得した「技術」だろう。小手先とか、テクニックの部分だ。
ちょっと数学とか物理が解けるようになったとか、IT機器を触れるようになったとか、いい曲を知ったとか、ピアノを覚えたとかといった事だ。
多分、それ以外は、何も変わっていないんだろう。
もちろん社会の仕組みを少し知ったり、人との対応方法はある。
ただ反面、偏見に捉われない考えるととか、青雲の志もなくなったりして、失ったものも大きいように思う。
あ、そうそう子供の頃からの違いとしては、自分の子供ができた。
今のところ幸いにも、親を泣かせないいい子だ。
(自分は何回か親を泣かせた)
という事で、50歳を超えた後、自分の進歩をほとんど思いつかないが、「日々気持ち新たに生きられればそれで良し」としよう。
今夜はそうして了😌
家族という基盤
昨日は、日曜日で卓球の試合があり、その夜は飲み会に参加予定だった。
ただ、飲みに行きたくなる程結果が良くなかったし、疲れていたのでパスして家に帰った。
すると、家で意外と結構するべき作業があり、まずそれをこなした。
そして、娘と久しぶりに長時間話した。
「TOEICを受けようか」とか「ITに興味あるからIT資格でいいの取ろうかな」とか他愛のない相談を受けた。また娘が昔中断したピアノを少し弾き始めていて、自分が初見で弾けないブルグミュラーの曲を「弾いてよ」と頼まれ、少し弾いた。
多分、飲み会に行ったら帰ってきて直ぐ爆睡して終わった夜だったと思う。
代わりに、家族の暖かさを感じることができて良かった。
自由な日々
今、幸いにも定時で退社できる部署だ。その後、本を読んだり、音楽を聴いたり、アメリカのtvドラマをみていると、あっという間に就寝の時間となってしまう。
本は、今、同時並行で2冊読んでいる。パトリシアコーンウェルの英語のサスペンス本と「オイラーの贈り物」。後者は、数学の本だ。これが、懇切丁寧な解説で面白い。昼休み、ランウンジで半分寝っ転がりながら例題を解いている。前者の英語のペーパーバックは、入眠剤を兼ねている。これを読んでいて、二度ほど眠く感じたら、本を置いた後、確実に眠っている。
音楽は色々聴いているせいか、発見があった。一つは、先日永年探し求めていた曲名がわかった。クルセイダーズの「スパイラル」だ。偶然聴いて曲名をチェックした。学生時代聴いたそのままのインパクトがある。
もう一つはバッハの無伴奏ヴァイオリン曲。
「一挺のバイオリンで宇宙を描いた」と言われている曲集だ。結構、音楽を聴いていると思っていたが、一昨日初めて聴いて感動した。
あと週末は卓球と、かなり自由な生活をしている。
自由はいい。それも平和があるからだ。だから、今のところ戦争突入を踏みとどまった北朝鮮にも感謝している。
自分の音楽データ無くなった!?
ご存じiTuneというソフトは、相当気まぐれなソフトだ。
今日も、新しいCDをPCに追加して、それをiPad とiPhone にコピーして曲を持ち運ぼうとしたら、りんごマークがすぐに来て、更新情報が全然コピーされない。
「ふーむ」と思って、PCのミュージックを同期しようとしたら、ポップアップがでて、「ライブラリーを削除するか、うんぬん」とでて、迷いなくOkをおしたら、なんと購入された曲のみがiPad に入ってきた。
僕は2200曲くらい曲データがあるが、同期したiPad では153曲なっていた。
PCも153曲しかない。。
家に帰って、ビールをのみながら何も考えずiPhone も同期したので全ての家のデバイスが153曲になってしまった!
焦った。これまで何十年とためてきた曲が喪失したか、と思った。
これはハードディスクにとってある数日前のPCのデータから復元するしかないと考え、やろうとしたら、PCが初期化されるだの、個人ファイルは残るがアプリは消えるだの、なんとも時間がかかりそうな記載がPCに出てきた。
だから、ビールなんかのんで、バックアップと気まぐれのiTunesを操作するからこうなるんだ、と後悔しても始まらず。
でも冷静にと、頭を働かせようとした。
1 音楽ファイルは消えていない。なぜなら消すのに時間がかかるが、その表示がなかったから、元ファイルはあるはず。
2 だとすれば、消えたのは、曲のインデックスファイル、つまり曲名とか、曲順とかの情報ファイルが消えたにすぎないだろう。
と推測し、PC内の音楽データのあるフォルダーを探し、音楽ファイルを全選択してiTunesにコピーした。
すると、PCのiTunesでインデックスファイルが戻り、今、iPad に同期できた!
これで、元に戻る(涙)。
やはり、何事も余裕こいてやってはいけないと反省した(汗)。
休暇の一日
今日は休暇。
チームを組んでいる他のメンバーも休暇を取るという事で、自分も仕事の隙間だし休暇を取った。
家で一日中ゴロゴロというのも勿体無いし、かと言って外に出るにも一人だと、ちょっとプランを考えないといけない。
まず午前中は家で作業をした。
次に昼飯は大好きなあの店に行くことにし、作業をその店の開店の11時までに済ませることにした。
11時前に行くと店は列ができていて、前から人数を数えて一巡目に入れることを確認した時、幸いにも開店して列が動き出した。
こうして、至福の食事。週2日間運動多めだったので、大盛りにした。
ここは、つけ麺の元祖と言われる店の一つだ。味は元々絶品だが、今日のようにスープが緑に見える時は更に美味しい気がする。
食事の後、銀行と百均に行った。百均では、iPhoneの充電ケーブルを買った。家の2本の内、一本が断線気味で、寝る前に繋がる調整をやるのが超面倒だったからだ。
さて、この後どうするかだが、いつもの好きな野川公園に行くことにした。
野川公園は自転車で自宅から1時間ほど。広大な緑豊かな公園でリフレッシュできる。
公園についたら、川沿いに寝っ転がれそうなベンチがあった。
そこで早速休憩することした。持ってきたお茶を一つのんで、本を取り出して、寝っ転がった。
寝転がると、木漏れ日と周りの緑に包まれた。
持ってきた本は、パトリシアコーンウェルのペーパーバックだ。
洋服とか、握手の強すぎる相手を嫌ったり、女性作家らしい細かい観察眼が面白い。
しばらく読んでると、予想外にも突然睡魔がきた。
運動で疲れていると、よく電車の中で来る全身に来る睡魔だ。
30分ほど寝た。起きる瞬間、なんと自分の寝息が聞こえた。
寝息をしていた時は、起きていたのだろうか。それとも寝ていたのか。
緑の中で風と光を感じる時間が経ってゆくのを惜しく感じた。そんな風に感じるのは稀だ。
いっそ、ワインでも飲みたくなってきた🍷。
映画の「サイドウェイ」のように、リュックからグラスを取り出して、緑に乾杯もいいと思った。
ただ肝心のワインは持ってきていなかった。
運動の疲れも何も全て取れたので、ベンチから立ち上がって公園を歩いた。涼しい風と、強めの光と、新緑の光景が交差しながら現れた。
緑を満喫し帰途に着こうとした時、ふと野川をみたら、横から湧き水が川に流れ込んでいた。
その上流は確かに枯れているのに、そこから下流は流々とした川になっていた。
湧き水はわずか、ペットボトル2本くらいを流しているような流量なのに、ずっと流れ続けているせいか、そこからちゃんとした川になっている。わずかな努力でも継続していると、大きな力になるということか。
帰りはスタバでこのブログを書いている。音楽は、プレイリストで自分の気に入ったジャズだ。
大抵昔から聞いている古い曲だ。今、ジョンコルトレーンのグリーンスリーブスのカバーを聞いている。
ということで、今日は最高のリフレッシュができた\(^o^)/