幸せの反対の知らせ
最近、友人、親戚がガンになった。
一人はアメリカの友人。20年ほど前に一緒に仕事をしたパートナーだ。
これまでのクリスマスカードで知らされる様子では80才超えて元気そうだったが、今年のには、ガンはもう治らないレベルまで進行していること、日本にもう一度行きたいという旨が書かれたクリスマスカードをもらった。
文面やそのあとのメールからすると、本人はいたって普通のようだが、ガンか副作用か散歩の途中に転倒し、日本行きを延長するという連絡が入った。果たして再び彼に会えるだろうか。僕がアメリカに会いにいくかもしれない。
もう一人ガンの知らせは、親戚でもっともお世話になった叔父さんだ。
叔父さんは卓球の名手で、引退して今は浜名湖の近くうなぎ釣りやらパセリを収穫している。
小学校の頃、万博に連れてってもらい、中学校の頃は卓球をし、ぼくの子どもも浜名湖でボートに乗せてもらった。今も、卓球の練習場所を案内してくれたり、牡蠣をくれたり世話をしてくれる。
僕の子どもが、小さいころ乗せてもらった浜名湖のボートを思い出し、春休みに大学の友達とボートに乗せてもらいたいと言い出した。そこで、叔父さんに電話し、周りで子供の声がし、声も抑えめだったので病院だと思った。
孫の誰かの付き添いできてるのだろうと。
すると後で電話がきて、実は本人のガンが見つかったという。幸いにリンパに転移していないので、切除か放射線治療か、近々決めると言っていた。ネットでそのガンを調べた。生存率も。
人生には安定などない。
幸せに思える時があっても、また逆風が吹き、そして、時に突然の別れを宣告される。
高校の倫社で、ブッタが「人生は苦とともに生きる」ということで、四苦八苦(四苦は生・老・病・死)と習ったが、当時実感はなかった。
その後大人になって、楽しみには必ずコストがあり、いい時があれば、悪い時もあるということを経験的に知っている。それでも、幸せな日々の反対の部分が不意に来ると、いつも悄然としてしまう。
ただ人生はあり、人は生きる事を選択する場合が多い。
生きる人生には意味がある。何か意味があるという事だけは信じている。
(信じることを努力するしているという方が正しいかもしれないが)